1960年代のシンガポールは、1人当たりのGNPが320米ドルに満たない、発展途上国でした。インフラが不足し資本も乏しく、一握りの産業が国内消費のためだけに製造を行いました。経済のほとんどを低価格の取引が占めており、直接投資はほとんどありませんでした。イギリス軍撤退後、大量の失業者が生じ労働不安に悩まされました。 雇用創出が最優先事項でしたが、雇用を創出するには、労働集約型産業の誘致が必要です。しかし、それにはまず、産業の発展に結び付くような環境を整備しなければなりませんでした。こうして、ジュロン工業団地が生まれました。西海岸沿いの湿地がシンガポール初の工業団地に生まれ変わったのです。1961年、1億ドルの予算を投じてシンガポール経済開発庁(EDB)が設立され、シンガポールがビジネスに適する場所であることを海外投資家に理解してもらおうとその取り組みを開始しました。シンガポールの工業化計画は、衣類、繊維、玩具、木製品、カツラの工場生産で開始しました。これらの労働集約型産業に、シェル・イースタン・ペトロリアム社、ナショナル・アイアン社、スチール・ミル社といった企業の資本・技術集約型プロジェクトが加わりました。1965年、シンガポールはマラヤ連邦から分離しましたが、これにより、原材料の入手先である広大な内陸地域だけでなく、完成品を消費する大規模な国内市場も失いました。シンガポールは、輸出志向型産業の発展に新たに挑むことになります。EDB は、海外投資家を誘致するため、香港とニューヨークに、最初の海外事務所を開設しました。