EDBの歴史

シンガポールがアジア経済の中核として成長するにあたっては、数多くの課題を乗り越える必要がありました。 小さな発展途上国だったシンガポールは、経済、社会、政治的混乱した時代をくぐり抜け、先進国社会における主要都市である現在の姿に変貌を遂げたのです。

1960年代

1965年に新興独立国となったシンガポールは、天然資源に恵まれず、多くの不確定要素を抱えたまま新国家として船出しました。シンガポール経済の歯車を動かすために早急に解決しなければならない重要な課題の1つは、雇用でした。


1960年代

当時のシンガポールは、1人当たりのGNPが320米ドルにも満たない発展途上国でした。インフラは十分に整備されておらず、資本も限定されていました。低価格の経済活動が主流で、一握りの産業が国内消費のためだけに製造を行っており、海外からの直接投資を受け入れる余地はありませんでした。

高い失業率と労働不安に悩まされたシンガポールは、雇用創出のために、産業の発展に寄与するような環境を整備しなければなりませんでした。こうして、シンガポール初の工業団地、ジュロン工業団地が誕生したのです。

シンガポールは活気あふれる成長期に突入し、1億ドルの予算を投じてシンガポール経済開発庁(EDB)が設立され、シンガポールがビジネスに適した場所であることを海外投資家にアピールする取り組みを開始しました。

これら2つの機関の創設を皮切りに、シンガポールの工業化計画が開始され、衣類、繊維、玩具、木製品、カツラの工場生産が始まりました。 これらの労働集約型産業に、シェル・イースタン・ペトロリウム社、ナショナル・アイアン & スチール・ミル社といった企業の資本・技術集約型プロジェクトが加わりました。

この工業化計画の成功により、シンガポールは次第に新たな課題に直面するようになりました。それまでマレーシアから調達していた原材料の不足や、国内需要の急激な拡大などです。 その解決のためにシンガポールが行ったのは、輸出中心の産業の開発です。EDBは、海外投資家を誘致するために香港とニューヨークに最初の海外事務所を開設しました。

シンガポールは優れた税率と税法を維持し、石油化学、エレクトロニクス、クリーン・エネルギーなど、経済の柱となっている産業を推進するための戦略的、総合的なアプローチを取りながら、最近では、都市生活、ウェルネス、エイジングケア、医療、ライフスタイル製品およびサービスの分野で新しいアイデアやソリューションを開発・実証することを目的とした「フューチャー・シンガポール」という政策を実施しています。

シンガポールは技術革新に適したロケーションとして、研究開発(R&D)制度や知的所有権(IP)制度を充実させてきました。

また、国内のIP保護のための法的な枠組みの整備に尽力し、 国際経営開発研究所(IMD)の『世界競争力レポート2011』によると、シンガポールのIP保護制度は、アジアでトップ、世界では第9位にランクされています。 同じく、世界経済フォーラムの『世界競争力レポート2011-2012』でもアジアでトップ、世界では第2位にランクされています。

一貫して信頼できるIP制度が整えられている場所として、2009年に世界知的所有権機関(WIPO)がアジア初の地域事務所をシンガポールに開設しました。

また、積極的なIP保護実施により、30社を超える大手バイオメディカル・サイエンス企業もシンガポールに地域統括会社を設立しています。

シンガポール政府は、世界経済が危機的状況に陥っているときも常にピジネス優先の政策を採用し、 法人税率の引き下げ、従業員の中央積立基金(CPF)への拠出金率の引き下げ、オフィス賃料の上限設定などの措置を実施し、政策の質に関して、世界で最もビジネス環境の優れた国にランクされています(世界銀行の『ビジネス環境の現状2012』)。