AIヘルスケア――研究から医療現場への導入を支えるエコシステム
シンガポールの研究開発投資は、5カ年計画の下で拡大してきた。2026~2030年の研究・イノベーション・企業計画(RIE2030)では370億シンガポールドル(以下SGD、約4兆6000億円)を投じる。「健康・人の潜在能力の向上」を重点分野の一つに位置づける。
人工知能(AI)の進展、ゲノム解析技術の高度化、世界的な高齢化を背景に、新たな技術の医療現場や社会への実装が重要な課題となっている。シンガポールでは、研究・イノベーションへの継続的な公的投資を土台に、AIを活用した医療、ゲノム・健康データに基づく精密医療、健康寿命の延伸に向けた研究を進めている。特徴は、国を挙げたバックアップのもと、産学官や医療機関がシームレスに連携し、研究成果の迅速な実用化を目指している点だ。
画像はAIで生成したものです
シンガポールの研究開発投資は、5カ年計画の下で拡大してきた。2026~2030年の研究・イノベーション・企業計画(RIE2030)では370億シンガポールドル(以下SGD、約4兆6000億円)を投じる。「健康・人の潜在能力の向上」を重点分野の一つに位置づける。
保健省は2026年5月、向こう5年間に25億SGDをトランスレーショナル研究・臨床研究に投入すると発表した。重点領域の一つがAI活用であり、臨床データや医療画像などを活用し、心血管・代謝疾患、眼科領域などでAIモデルの開発と現場導入を進めている。
医療AIの活用はすでに始まっている。国立眼科センター(SNEC)傘下の眼科研究所(SERI)とシンガポール国立大学(NUS)が開発した「SELENA+」は、網膜画像から眼疾患を検出するAIシステムで、糖尿病網膜症のスクリーニングに導入されている。また、国立心臓センター(NHCS)は2021年にAI研究ラボ「CVS.AI」を設置し、心血管疾患の画像解析技術を開発している。その成果の一つである冠動脈疾患解析システム「SENSE」は、心臓CT画像をAIで解析し、冠動脈疾患の評価を支援する技術で、2025年にはNHCSなど3医療機関で試験導入する計画が発表された。
独メルクのAIを活用したデータ連携を進めるデジタルハブや睡眠・呼吸器医療企業ResMedの「Digital Science and AI Lab」設立など、企業によるAI技術やデジタルヘルスの研究開発も進む。
AI技術の研究にとどまらず、医療データを活用し、臨床現場での検証を経て、実際の医療での活用につなげている点もシンガポールの特徴だ。
高齢化と慢性疾患の増加に伴い、医療資源への負担が高まる中、疾病リスクを早期に把握して予防や早期介入につなげる医療の重要性が高まっている。
シンガポールでは、2017年に開始した国家精密医療(NPM)プログラムを通じ、ゲノム情報と臨床情報、生活習慣などの健康データを組み合わせた精密医療の研究と実装を進めている。NPMは、個人ごとに異なる疾病リスクを把握し、より適切な予防、診断、治療につなげることを目指す国家戦略だ。フェーズIでは、1万人規模のゲノムデータ基盤を構築した。2020年に開始したフェーズIIでは、約10万人を対象に、全ゲノム情報を臨床情報や生活習慣などの健康データと組み合わせた大規模コホート「SG100K」が構築された。こうしたNPMの取り組みを統括するのが、PRECISE(Precision Health Research, Singapore)だ。
PRECISEは、保健省傘下の臨床研究・イノベーション機構(CRIS)の事業部門で、シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)、公的医療機関、大学などと連携する。
フェーズIIでは、さらに5つの臨床実装プロジェクトを通じて、ゲノム情報が診断・治療・予防の改善につながるか、費用対効果や医療現場での導入可能性を検証した。その一例である家族性高コレステロール血症では、取り組みの成果が2025年の全国的な遺伝子検査プログラムにつながった。
2025年に開始されたフェーズIIIでは、居住者人口の約10%を対象とすることを目指し、3つの公的医療グループと連携して、ゲノム情報の臨床応用をさらに広げていく。
NPMの特徴は、多民族社会であるシンガポールの特性を生かし、中国系、マレー系、インド系などアジア系集団を反映した大規模なゲノム・健康データを構築している点にある。このデータは、創薬ターゲットやバイオマーカー探索への活用も期待されている。
実際、PRECISEは2025年にバイエル(Bayer)、ノボノルディスク(Novo Nordisk)など4社とSG100Kを活用する製薬企業コンソーシアムを設立し、2026年にはグラクソ・スミスクライン(GSK)も参加した。研究機関と企業がデータを活用し、新たな診断技術や治療法の開発に取り組んでいる。
高齢化が進む中、健康寿命の延伸に向けた研究の重要性が高まっている。シンガポールでも、老化そのものを科学的に捉え、健康寿命の延伸を目指す研究が進んでいる。
2023年にはNUS健康長寿アカデミーも設立された。個人ごとの老化状態に応じた予防・介入を目指す精密老年医学の研究と実装を推進し、生活習慣、サプリメント、薬剤などを組み合わせた個別化介入の研究を進めている。また、3000人超を対象とした健康長寿に関する意識調査を実施し、健康長寿に向けた予防・介入を医療制度に取り入れることなどを提言している。同アカデミー傘下の臨床試験センターでは、ヒトを対象とした臨床試験を通じ、精密老年医学の臨床応用を進めている。50~80歳を対象とした研究では、運動、サプリメント、生活習慣指導などを個人の状態に応じて組み合わせ、その効果を評価している。
企業との共同研究も進んでいる。2026年には化粧品大手のロレアルと複数年の共同研究を開始し、臨床試験センター内に共同ラボを開設した。皮膚などが全身の老化状態を反映する指標となり得るかを検証している。
こうした研究と並行して、シンガポールではバイオメディカル産業の集積も進んでいる。2025年に終了したRIE2025期間中、国内で活動するバイオテック系スタートアップの数は約70社と倍増し、5年間で計51件の資金調達を実施、総額14億米ドルを調達した。大学や研究機関、医療機関との企業連携も広がっており、産学官が一体となったエコシステムの形成が加速している。
AIでは医療現場への導入が進み、精密医療では製薬企業がSG100Kを活用した研究に参加している。健康長寿分野でも企業との共同研究が始まった。こうした事例は、シンガポールで企業が研究開発の段階から臨床検証や事業化に関わる機会が広がっていることを示している。